シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏講演会報告 伊藤 寧美

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏講演会報告 伊藤 寧美

日時:
2015年2月9日(月)、13日(金)
場所:
東京大学駒場キャンパス101号館2階研修室
講演者:
シャンカル・ヴェンカテーシュワラン(劇作家)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム 多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)教育プロジェクト1「生命のかたち」

1月、IHSの研修で赴いたケーララ州国際演劇祭(ITFoK)のフェスティバルディレクターであるシャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏を駒場へお招きすることとなった。ヴェンカテーシュワラン氏には2回の講演会を行っていただいたが、それはちょうど彼の2つの顔、つまりフェスティバルディレクターとしての顔と、演出家、アーティストとしての顔の両方を伺い知る機会となった。

2月9日の講演会では、ITFoKの過去7回の歴史を振り返りつつ、今年の開催におけるご自身の作品選定のポリシーやスタンスをお話しいただいた。おそらく世界でも珍しい、共産党が選挙により政権をとった州であるケーララでは、演劇の社会的地位は独特である。プロレタリアートの芸術として、演劇上演は無償であるべきであり、社会に根差すべきものであり、そしてプロパガンダ、政治的側面を持つ。

第1回から3回までのフェスティバルの演目は地域性を主軸に選ばれ、南アジア、アフリカ、ラテンアメリカと、非欧米地域に着目していた。だが2010年に政府から予算がおりるようになり、方向性もまた変化していく。12年から14年の3年間はヨーロッパの作品が数多く招聘され、他の欧米のフェスティバルと変わらぬ顔ぶれがラインナップに挙げられた。15年のディレクションを任されたヴェンカテーシュワラン氏は大きく舵を切る。いわゆるフェスティバルマーケットに乗らない非欧米圏の作品選定に立ち戻り、同時に「レジスタンス」というテーマを掲げ、とりわけ紛争、貧困、差別が深刻な問題となる地域の作品に焦点を当てた。また制度面では、有料チケット制を導入する。共産主義の観点から観劇が無料でないことに多くの批判が出たが、これは収益を得るためではなく、けが人が出るほど殺到する観客のパニックを抑えるための事実上の整理番号券である。

ケーララ州における演劇の社会的役割を作品のラインナップで示しつつ、より良い観劇環境を作るために共産主義的な価値観をうまく緩めたローカル性と、西洋中心的ではない演目のグローバル性の両輪を備えた極めてユニークなフェスティバルを作り出していた。研修中も肌身に感じていたことではあるが、改めてヴェンカテーシュワラン氏のポリシーやスタンスの背景を知り、演劇祭が抱える様々なポリティクスを考える時間となった。

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏講演会報告 伊藤寧美

2回目の講演会は、ヴェンカテーシュワラン氏の演出家としての側面を知る機会となった。2008年に、静岡県舞台芸術センター(SPAC)の所属俳優である美加理氏との共同製作で作られたSahyande Makan - The Elephant Project の映像を拝見した。ヒンドゥー教の祭儀に使用される雄の象が、劣悪な飼育環境の中、狂気に陥った末に撃ち殺されるという悲劇を無言劇として作り上げたものである。インドの伝統的な祭儀やその熱狂と、祭儀に対する近代的価値観や象の死への憐れみが対峙する素晴らしい作品だった。他にも、太田省吾氏の代表作である『水の駅』をインドの俳優と製作した際のパンフレットも拝見し、日本の小劇場演劇の大きな潮流の一つであった「静かな演劇」が、インドにおいてどのように受容されたのか大変興味がわいた。ヴェンカテーシュワラン氏のディレクションへの期待と同時に、彼自身が創った作品を日本でも観てみたいと強く思う。それは単に彼が日本の役者や戯曲を扱っているからではない。初回の講演会からも伺えるヴェンカテーシュワラン氏の、伝統と近代、西洋と非西洋、ローカルとグローバルの対立、共存への葛藤は、文脈は大きく異なるが日本も抱え続けている問題のはずである。だからこそ、その文脈がいかに違うのか、共通する問題は何かを見つめることが、現代演劇を考えるにあたって求められているからである。

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏講演会報告 伊藤寧美
報告日:2015年3月17日