IHSプロジェクト3学生企画 『先端生物学とハワイ文化を体験する研修』報告 半田 ゆり

IHSプロジェクト3学生企画 『先端生物学とハワイ文化を体験する研修』報告 半田 ゆり

日時:
2014年2月16日-23日
場所:
米国ハワイ島
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」」
協力:
Winter q-bio meeting

2015年2月16日〜23日、IHS教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」の学生自主企画として、ハワイで開催された定量生物学会(winter q-bio meeting) への参加を行った。これは、自然科学を専攻する2名のプログラム生によって立てられた企画であるが、研修への参加者には社会科学系・人文科学系の学生も含まれ、文理融合を掲げるIHSの理念に合致する性格のものであったと言える。 17日〜20日の4日間にわたって行われた学会は、朝8時から夕方17時頃まで、数多くのプレゼンテーションやポスターセッション、科学コミュニケーションのワークショップ、そして定量生物学のパイオニアの一人であるウリ・アロンによるギターセッションなど、多様なプログラムに恵まれた。

筆者が素直に嬉しかったのは、学会にいる科学者たちに芸術の研究をしていることを伝えると、みな面白がって話をしてくれたことだった。異分野の人間を受け入れる懐の広さは、そもそも定量生物学の創始者が純粋な生物学者というよりも、物理学者であったことに由来するのかもしれない。実際、q-bioの参加者達のバックグラウンドは実に多様で、航空工学をやっていた人もいれば、コンピューターサイエンスを専攻する人、医学部に所属して研究を行っている人もいた。

とはいえ、よく知られるように芸術の語源はギリシャ語で「技術」を意味する言葉だったのだから、芸術と自然科学が全くの無関係ではないことは明らかである。ここでその歴史を詳しく述べることはできないが、筆者はより単純なレベルで、学会の発表内容や参加者との会話から、自らの作品制作に対する大きな刺激を受けた。定量生物学の特徴の一側面を取り上げるならば、一細胞に対する徹底的な注視を指摘できるだろう。ひとつの細胞がどのような刺激を受け、変化し、システム全体に影響を及ぼしたのかを追うためには、顕微鏡による観察を通した「可視化」と、それに基づく認識と分析の作業が欠かせない。学会で触れた数十のスライド上で、追跡を容易にするために色とりどりに塗られた、あるいは蛍光タンパク質を持ち光る大腸菌の姿を繰り返し見る事になった。電子顕微鏡の画像上でまばらに光る大腸菌たちは、これまでその存在を想像する事さえしてこなかったのだが、紛れもなく何らかの「画」を形成していた。

ここでただちに想起されるのは、ポスト印象派と新印象派にまたがる位置にあるとされる画家、ジョルジュ・スーラの点描作品である。風景のディテールの再現がなく、「印象」だけが描かれているという揶揄を受けた印象派というひとつのグループは、まさにその呼称の誕生が示すように、画家の目の前に現れるものを密には描きこま「ない」ことを特徴のひとつとしていたといえる。これに対し、たとえばごく微細な色彩の点描によって画面を構成したスーラ《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》(1884-1886)は、それまでの印象派の画家、たとえばクロード・モネが太く短い筆で実践した色彩分割の技法を、より細分化された色の点の配置によって試みた作品といえるだろう。スーラが描き出した淡い色の点たちは、顕微鏡写真の中の色とりどりの細胞や大腸菌たちの姿と重なる。スーラ的な描写の細分化はミクロな方向へと向かう表現技法であり、モネ的な一筆の太さはマクロな方向へと向かう表現技法なのだ、という分析は言い過ぎだろうか。あらゆる種類の歴史がそうであるように、美術史もまた、先行する世代と相反する(アンチ、とか、ポスト、などと名指される類の)特徴を備える集団や表現が現れ、先んじる歴史を繰り返し更新していく営みである。マクロへの着目の次にミクロへの注視が現れることは、したがって美術史においてもまったく自然なことだ。単純化した言い方をすれば、粗い筆遣いの印象派に対して、細やかさや線の細さを特徴とするポスト印象派・新印象派が現れたことは、上記の流れとして考えられる。かつて生命をミクロ的な(すなわちそれは分子生物学的な)方法で解明することが目指された時代の後で、膨大な分子を「博物学的に」解析しても、結局総体としての生命の仕組みは理解できないという視点から定量生物学が興ったという話は、正反対の流れではあるものの、どこか似通った点があるとは言えないだろうか。

研修に参加する以前の筆者であれば、上に述べた考察を突飛な発想だと思い、口にすることはなかっただろう。だが、より自由に考え、より自由に表現することこそ、q-bio meetingを通じてはっきりと心に抱いたことかもしれない。

こうした考え方を決定づけたのは、3日目の夕方から行われたウリ・アロンによるギターセッション「love and fear in the lab」だった。ウリは、大学院生時代の自らの経験──問題にぶち当たり、ゴールを見失い、周りの助けによってブレイクスルーし、当初の計画とは異なった答えにたどり着き、そして科学的真理を見出すという一連のプロセス──について、cloudをキーワードにしたセッションを各学会において続けている。cloud──つまり「雲」は、「もやもや」という日本語がもっとも正しい訳語かもしれない。解き難いアポリアにはまり込んだ時、人間は誰しも頭を抱え、行き先の見えないもやもやに取り囲まれ、自信を失う。とりわけ自然科学という唯一の客観的な真理を追求する学問においては、その真理に到達する研究者自身も、研究のプロセスそのものも、自然科学が備える性格──客観性と理性──を同じにするものであることが想定されがちであると言えよう。だが、先に述べたように、自然科学者でさえも、人間である限り、完全に客観的で理性的な存在にはなれない。私達には主観があり、時には非理性的な感情があふれることがある。出口のわからないもやもやの中に放り込まれた時、私にまず迫ってくるのはそういった感情であり、同時にそこから救い出してくれるものも、感情を伝ってやってくることがあるとは言えまいか。ウリは、そのもやもやにこそ目を留め、そこから研究者が脱する具体的な方策を考えるべきではないかと提案しているのである。

自然科学であれ、人文科学であれ、その「科学」の内容を如何に人に対してコミュニケートするのか、という問題が問われるべきことは、もはや自明であるように思われる。その共通性をふまえた上で、やはり全く違う領域(筆者であれば、自然科学や社会科学)の現場へと飛び込む人間が必要なのではないか。その行く先は、最初はもやもやなのかもしれない。しかし、もやもやの中へ思い切って飛び込まなければ、真の文理融合などというゴールには到達し得ないことを確信している。

人文科学を専攻する学生が、自然科学系の国際学会に出席するなど、普通では全く考えられない経験をすることが出来た。しかし、全く馴染みのない、普段触れる事のない新しい事柄を知る事は、筆者の知的好奇心を大きく刺激した。固有名詞を知っているかどうかはあまり関係がない。本当に面白い自然科学の研究を行っており、それを人に伝える熱意を持っている人の話は、専門外の人間にとっても実に面白く聞けるものだからである。筆者は今回の経験を、何らかの作品に表現し結実させる事で、最終的な成果としたいと考えている。

IHSプロジェクト3学生企画 『先端生物学とハワイ文化を体験する研修』報告 半田ゆり

報告日:2015年3月30日