南インド・ケーララ州国際演劇祭研修報告 伊藤 寧美、半田 ゆり

南インド・ケーララ州国際演劇祭研修報告 伊藤 寧美、半田 ゆり

日時:
2015年1月11日(日)-16日(金)
場所:
南インド・ケーララ州トリシュール市
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

伊藤 寧美

本研修は、インドのケーララ州で開催されている国際演劇祭への参加、および当地の文化、芸能に親しむという目的であった。私自身が日英の現代演劇の研究をしているため、インドの現代演劇や、招聘された海外の作品群を鑑賞できる今回の演劇祭は大変実り多く、またカラマンダラム芸術学校訪問などインドの古典芸能や文化、宗教といった作品背景を理解する機会にも恵まれ、有意義な研修となった。

主としてInternational Theatre Festival of Keralaについて述べたい。今年から新たに芸術監督に就任したシャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏のディレクションの焦点は「政治的な」舞台芸術であった。もちろん、「政治」という言葉が意味するものは広いが、私が鑑賞した作品から感じ取った方向性は二つある。

一つは、紛争、宗教、フェミニズム、欧米と非西洋の対立やその経済的搾取の問題など、重要な政治的テーマに関して強くメッセージ性をもつ作品に主眼を置いていたことである。だが、決してナイーヴな社会変革を求めるプロパガンダ演劇にとどまらず、いかに抑圧されたものの声を観客に届けるかという点に注力した作品が目立つ。日本の現代演劇、とりわけそれが、時に社会問題を深く扱いながらも、非政治的な態度を取りがちな側面を少なからず目にしてきた私にとって、フェスティバルの生々しいとさえいえる政治的態度は演劇の社会的役割を再確認させるような観劇体験だった。

もう一点は、徹底した非欧米圏からのセレクション、というスタンスである。もちろん、欧米の作品が社会的、政治的問題を扱わないわけではない。だがヴェンカテーシュワラン氏のポリシーは、インドという土地で開催されるフェスティバルにおいて、欧米の問題がダイレクトにアジアの問題に直結する、という態度の危うさを考えさせるものだった。今回上演された作品の多くは、アジア、中東、アフリカ圏の作品およびインド国内やケーララ州で活動している劇団の作品である。確かに、例えば女性の社会進出の問題はどの地域においても重要であり、ある種の普遍性をもったものとも言えるだろう。だが、欧米における女性の権利問題と、インドやアジア、また開発途上国におけるそれとは当然ながら歴史的背景、文化的文脈に大きな違いがある。個々の社会問題は一定の、普遍性、国際性を持ちうるが、そうした共通項からあえて一歩距離を取ることで、今のアジアの現状において取り組むべき問題をより明確にするフェスティバルだった。

フェスティバルの詳細な背景に関しては2月に行われたヴェンカテーシュワラン氏の講演により詳しいが、一観客として参加しているだけでも氏のポリシーやフェスティバルの持つメッセージを受け取ることができた。来年も引き続き氏のディレクションのもとフェスティバルが開催される予定であり、今後の動向も注目すべきだと感じている。

南インド・ケーララ州国際演劇祭研修報告 伊藤 寧美、半田 ゆり

報告日:2015年2月16日

半田 ゆり

芸術と触れる際のふるまいについて考え、意識する5日間だったように思う。筆者にとって、数日間にわたって舞台作品を見続けることはまったく初めての経験だった。そうであるならば、いっそのことできるだけその体験から受ける衝撃を大きくしよう。そのような意識を、初日に4作品を連続で観劇したあとにはすでに持っていた。多くのパンフレットが配られており、各劇団や作品についての事前のリサーチを行ったうえでインドに向かっていたのだが、いったん頭からそれらの情報を消してみよう、と考えた。もともと舞台芸術にかんする知識も経験もほとんどないのだから、余計な情報を捨てて、白紙の頭で作品に向き合いたい。そこで何を感じるのか試してみたい。そう思った。次の日から、作品を見る前にそれについて調べることをやめた。

美術館やギャラリーでいわゆるタブローと対峙するとき、そこにはたいていキャプションが添えられている。キャプションに書かれた文章が作品の解釈の方向性を決定付ける、という自明の効果はもとより、マテリアルとして配置されるキャプションそのものも、展示空間を構成する重要な要素である。それは何ミリの厚さなのか。素材は何か。フォントの字間は等々。キャプションやカタログに書かれた作品やアーティストについての言葉を目の前にすると、読まなければならないという義務感さえ覚える。誠実な鑑賞というものがあるのだとしたら、それは展示のすべてにかかわる十全な背景知識をもった上で、作品を凝視する、そのような身振りなのではないかと考えてしまうことがある。

だが、そういった知識や情報によって、作品の体験が自分自身から遠ざかってしまうこともままあるのは疑いようがない。たとえ自分が衝撃を受けたとしても、それを理性で片付け直視しないようにする。

筆者が演劇祭で劇団や作品についての情報を入れるのをやめたのは、今しがた述べたような衝撃をきちんと受け止めようと思ったからだ。そして、その思惑はある程度の成功を収めたのではないか、と今振り返れば考えることができる。

具体的な作品名をあげたい。ARICAによるサミュエル・ベケット原作『Happy Days』は、演劇祭ディレクターのシャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏によれば、ちょうど演劇祭の全プログラムの真ん中に来るように配置されていた。一日目のアビラシュ・ピライ演出による宇宙空間の映像を含んだ壮大な世界観の作品『AVUDAI』や、三日目のデンマークのデュオによるレクチャー・パフォーマンス『FASHION ZOMBIE&TOUCH SCREEN』等を観劇した筆者は、そもそもそのようなジャンルのパフォーマンスが存在することを知らなかったがために、かなりの程度頭が混乱していたように思う。その混乱は、奇しくもこの『Happy Days』で一番の高まりを見せたのではないか。本作品は、ベケットの原作を倉石信乃氏が翻訳したものである。母語である日本語と英語字幕によって演じられる不条理演劇──これもまた、筆者にとっては初めて触れるジャンルであった──は、ストーリーや時系列によって解釈を試みようとするこちら側の意図を寄せつけない強度をもっていた。主演の安藤朋子氏の力強いまなざしと声はずっと脳裏から離れることなく反響し続けているのだが、それについて自分の頭はなんらのリアクションをすることもできない、そのような戸惑いと驚きが、上演時間中ずっと、そして上演後も持続していた。

このようにわずかながらの言語化を試みられる程度には、そのときに受けた衝撃を整理できるようになったのかもしれない。とはいえ、演劇祭の5日間で得たさまざまな素直な心理的反応とそれに辿りつくための身振りは、価値あるものだったと今感じている。

南インド・ケーララ州国際演劇祭研修報告 伊藤 寧美、半田 ゆり

報告日:2015年2月15日