プログラム生自主企画:映画『標的の村』自主上映会 報告 崎濱 紗奈

プログラム生自主企画:映画『標的の村』自主上映会 報告 崎濱 紗奈

日時:
2015年1月11日(日)13:00〜16:30
場所:
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

2015年1月11日(日)、映画『標的の村』(三上智恵監督、2013年)の上映会が開催された。本上映会は、IHS学生有志による自主企画で、私を含む5名の企画者(崎濱紗奈、城間正太郎、菊池魁人、半田ゆり、山田理絵)が2014年10月から準備を進めてきた。

本上映会の目的は主に次の二点であった。一.沖縄における基地問題を日本社会・国際社会全体の問題として広く周知すること。二.基地問題を、沖縄が抱える個別的事例としてではなく、普遍的文脈の中に布置することによって議論の場を開くこと。背景には、軍事基地をめぐって「沖縄」という場所で生起する様々な問題が、日本社会においてはしばしば、「沖縄問題」と名指されることによって一地域の個別的問題として矮小化されることへの違和感があった。少なくとも、「沖縄問題」が近代国民国家体制を前提とする国家安全保障の問題であるのならば、まずは日本社会全体で議論する必要があるのではないか。あるいは、「沖縄問題」が近代国民国家体制そのものに内包される歪みゆえに生じているのだとしたら、「沖縄問題」は単に個別的な地域問題というよりもむしろ、普遍的・思想的な問題として広く問うべきではないだろうか。近現代沖縄思想史を研究する者として、私が普段から抱いていたこのような思いが、今回の上映会を企画する大きな動機となった。そのため、本企画では、作品の上映もさることながら、その後のディスカッションに時間を割くことを重視した。ディスカッションでは様々な問題が提起され、ホワイトボードを使用しながら活発な議論を交わすことができた。上映会の目的を、ささやかではあるが達成することができたと感じている。本報告では特に、ディスカッションでも議論された、「沖縄」対「日本本土」という対立構造について考察したい。なぜなら、この問題から出発することによって、「沖縄問題」を、個別的な問題としてではなく、かといって抽象的な問題として「沖縄」を無化するのでもないやり方で考察する可能性を探ることができるのではないかと、私自身考えるからである。なお、以下は、当日行われた議論の詳細というよりは、議論を踏まえて後日報告者が行った考察であることを了承されたい。

映画『標的の村』は、米軍の新型輸送機「オスプレイ」配備反対運動を中心に、沖縄の現状を記録したドキュメンタリー映画である。東村高江のヘリパッド建設現場での工事作業員と住民との激しい攻防から始まるこの作品は、観客に刮目することを強いる。作品中描かれるのは、「政治的主体」(ジャック・ランシエール『民主主義への憎悪』インスクリプト、2008年)として現れようとする、あるいは「政治的主体」として「政治的対話」を試みようとする「沖縄の人々」の姿だ。ランシエールによれば「政治的対話」によって、「見られていなかったもの」は見えるように、「騒々しい動物としてしか聞かれていなかった人々」は「話す主体として聞かれるように」、また、「見るべきものも討議すべきものもないと宣言された人々」は「対話の相手として計算される」ようになる(ランシエール、前掲書156頁)

プログラム生自主企画:映画『標的の村』自主上映会 報告 崎濱 紗奈

ここで注意したいのは、「政治的主体」としての「沖縄の人々」とは、たとえば「民族」概念等によって本質的に規定される「主体」ではない、ということだ(このように言うのは、「沖縄の人々」と言った際、時にそれが「民族的主体」として想定されることがあるからであり、ここで私が述べようとしている「政治的主体」としての「沖縄の人々」とは、そうした概念とは異なることを明確にしておきたいからである)。ディスカッションでも指摘されたが、本作品中には東村高江や名護市辺野古での米軍基地反対運動に、その土地の出身者に加え、日本本土や沖縄の別の地域からの移住者/一時的訪問者が参画している様子が映し出される。そこでは、「沖縄人」と「内地人」、「土地の人」と「他所の人」など、様々な分断線が引かれる(「沖縄人」建設業者が反対住民に向かって「ナイチャー(内地人)」と名指すシーンや、普天間基地ゲート前の機動隊に対して「ウチナーンチュ(沖縄人)」としてのアイデンティティを刺激し、連帯を図ろうとするシーン等)。議論の中では、こうした分断線を引くことは排他的な行為ではないかと指摘する声もあがった。あるいは、「当事者」を優位に置くことによって、問題を「当事者」以外の者たちと共有できない状況を生んでしまっているのではないかという指摘もあった。

『標的の村』は、こうした種々の差異あるいはそこから派生する問題を映し出しつつも、「沖縄の人々」が一つの集合体として、見るものの前に「現れる」ことを可能にしている。ここで「沖縄の人々」は決して固有の存在として規定し得るものではなく、むしろとても不安定なものである。ランシエールは、「政治的主体」について次のように述べた──「政治的主体は、現勢的な主体化装置としてのみ、ポリス的秩序を解体する論争的で逆説的な世界を形づくるという限られた能力としてのみ存在します」(ランシエール、前掲書156頁)。すなわち「沖縄の人々」は、はじめから輪郭の定まった存在として規定されているのではなく、既存の秩序に異議申し立てをし、政治的対話が可能な空間を開こうと試みる行為のただ中で形成される。

「沖縄」と「日本本土」、「土地の者」と「他所の者」、それぞれの置かれた政治的位置(ポジショナリティ)が異なる以上、これらの差異を無化することはおそらく不可能であろう。しかし、だからといって、「沖縄」「土地の者」を出自等によって本質的に規定することは、それ自体暴力を孕む行為であることも、また確かである。「沖縄」を、本質的主体として立ち上げる暴力を避けつつ、だが同時に、政治的位置を消すことなく自らを主体化し、「政治的対話」を求めて「論争」の場を切り開くこと──「政治的主体」としての「沖縄の人々」は、これを可能にする契機を含んでいるのではないか。まだ荒削りな部分が多々あるが、今回の上映会を通して、自らの研究にもつながる考察を行うことができたのは、企画者として望外の幸である。改めて、ご参加くださった皆さま、企画実現のため尽力してくれた他の企画参加者に感謝したい。

プログラム生自主企画:映画『標的の村』自主上映会 報告 崎濱 紗奈

報告日:2015年1月22日