ダリン・テネフ講演会「文学理論において、いかにしてモデルを構築するべきか?」報告 星野 太

ダリン・テネフ講演会「文学理論において、いかにしてモデルを構築するべきか?」報告 星野 太

日時:
2014年12月2日(火)16:30-18:30
場所:
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム4
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」「日本」ユニット

2014年12月2日(火)、IHS「日本」ユニットの企画として、ソフィア大学(ブルガリア)准教授のダリン・テネフ氏の講演会が開催された。テネフ氏は比較文学を専門とし、ブルガリア語のみならず、英語、フランス語、ドイツ語、日本語をはじめとする多言語に通じた気鋭の研究者である。これまでに刊行されたブルガリア語の著作としては『フィクション、イメージ、モデル』(2012)と『脱線──ジャック・デリダに関する試論』(2013)の二冊があり、英語や日本語でも数多くの論文を発表している。

今回の英語による講演は、「文学理論において、いかにしてモデルを構築するべきか?」と題され、主に文学理論における「モデル(model)」の概念に光が当てられた。テネフ氏は、レヴィ=ストロースの『構造人類学』から出発しつつ、アラン・バディウの『モデルの概念』やジャック・デリダの「ジャンルの掟」を参照しながら、文学作品の読解において「モデル」をいかに構築すべきか──あるいは、いかに構築すべきでないか──という問いを、文学にはとどまらない幅広い視点から考察した。

講演の冒頭でテネフ氏が引用したレヴィ=ストロースの『構造人類学』において、「モデル」は生の現実を社会構造として把握するための媒介的な役割を担っている。他方、やや単純化した言い方になるが、バディウが『モデルの概念』において提示するのは、数学のように厳密に計算可能な、科学的知識の土台をなすものとしての「モデル」の概念である。テネフ氏はこれら複数の「モデル」の定義を踏まえつつ、文学においてはまた別の「モデル」のあり方が必要だと主張する。なぜなら、私たちが文学的なテクストを読むさいには、事前に想定されたテクストの読解可能性をただ「現実化」するような読み方はできないからだ。むしろ文学的テクストが秘めている「特異な(読解)可能性」は、それを読む(=現実化する)私たちに対して、その「モデル」をたえず変更することを迫る。

デリダによる「読む」ことの実践は、まさしくこうしたテネフ氏の立場を補強するものである。周知のように、デリダは文学作品を含めたあらゆるテクストを「読む」ことに甚大な力を注いだ哲学者だが、そこでは作品に何らかの解釈モデルを当てはめるような読み方は徹底的に退けられている。むしろ、テクストを読むという経験は、それを通じて読み手が持っている「モデル」そのものが崩壊し、またそこから新たな「モデル」が生まれてくるような循環的経験である。言いかえれば、文学を読むということは、その「特異な潜在性」を顕わにすることであり、それはあらかじめ準備された「モデル」を当てはめるのではなく、そのつど新たな「モデル」を構築することを私たちに要求するのだ。

講演後は、テネフ氏の議論に対して数多くの質問が寄せられた。そこで提示された多くの問い──「本講演における「モデル」とは最終的には誰(何)のためにあるのか」「本講演で主張されたような読解の実践は具体的にはどのようなものになるのか」──を通じて、「モデル」をめぐるテネフ氏の問題提起は、各参加者にとって、今後のさらなる問いへと繋がっていったように思われる。

ダリン・テネフ講演会「文学理論において、いかにしてモデルを構築するべきか?」報告 星野 太

報告日:2014年12月8日