The Hybrid Self: Identity at the Crossroads 報告 中村 彩

The Hybrid Self: Identity at the Crossroads 報告 中村 彩

日時
2014年11月12日(水)16:30−18:00
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
講演者
Professor Roger Bensky (Georgetown University)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」

「『私』とは他者である。」この日のベンスキー教授の講演は、詩人ランボーのこの有名な言葉で始まり、その後の議論では、アイデンティティの問題について考える上でヒントとなるいくつかの論点を挙げていく、というかたちで論じられた。取り上げられたテクストは冒頭のランボーの「賢者の手紙」のほか、劇作家ベケット、イヨネスコから精神分析家で詩人のジャン・フランシェットまで多岐にわたったが、そこに通底するテーマは、自己の精神的分裂、分身との対決、あるいは自己の無化への誘惑といったかたちで現れる、アイデンティティの危機とでも呼べるようなものである。

この危機に対しどのように答えるべきか。講演の終わりに、話題は突如としてパレスチナへと飛び、イスラム原理主義組織ハマスの創始者の息子であるモサブ・ハッサン・ユーセフの名が挙げられた。彼はもちろんムスリムの家庭に生まれ、少年時代からインティファーダに参加したが、獄中に見たハマスの実態にひどく失望してイスラエルのスパイとなり、今ではクリスチャンとしてアメリカに亡命している人物である。(その物語は書籍化・映画化されてもいる。)このようにしてアイデンティティの根源的な変容を遂げたユーセフ氏を例に、ベンスキー教授はludic flexibility、すなわち「遊び」を含んだしなやかさ(柔軟性、順応性)の必要性を訴え講演を締めくくった。

まずこの日一番驚いたこととして指摘しておかなければならないのは、講演自体が教授の「パフォーマンス」になっていたことである。自身役者でもありまたパブリック・スピーキングも教えているというベンスキー教授だが、そのことを示すがごとく、講演原稿を朗々と読み上げ、またベケットの作品Fizzle 4を読み上げる際には部屋を歩き回りながら演技を交えて朗読してくださった。それはまさしくパフォーマンスであり、人前で話すということの面白さを体感させるものであった。

次に、先生が提示されたアイデンティティの柔軟性について考えたい。たしかに単一の確固としたアイデンティティが当然のものとして想定されている場合、それに対抗するのにそのアイデンティティの多数性や変容の可能性を認めることによって、解放されたりよりよく生きたりできることもあるだろう。しかし同時に、あるアイデンティティを──その虚構性をとりあえず引き受けた上で──措定してみることによってはじめて可能になるような運動もあるのであって、このことの重要性は忘れてはならない。また、あまりに安易なアイデンティティの変容は、ともすれば無責任につながる危険性をもはらんでいるのではないだろうか。たとえばネット上の顔も名前も見えない空間におけるアイデンティティのあり方を考えてみる。その匿名の空間では人はアイデンティティを容易に──「遊び」のように──変えることができる。対面だったら言えないような誹謗中傷も言えるし、自らの発言に対して責任を負わずに済んでしまうこともある。しかしそのような無責任はもはや「遊び」として許されるものではない。私たちは生身の人間であるということ、この世界の特定の場所に位置づけられているということ、そのような身体をもっているということは何を意味するのか、また「遊び」の危険性とは何なのか。これらの問いに真摯に向き合うことなしに、アイデンティティのしなやかな変容を肯定的に捉えることはできないのではないだろうか。

報告日:2014年11月27日