《同志》《酷児》の政治:中国におけるクィア/映画祭運動 報告 于寧、半田 ゆり

《同志》《酷児》の政治:中国におけるクィア/映画祭運動 報告 于寧、半田 ゆり

日時
2014年10月27日(月)18:00-21:00
2014年10月29日(水)18:00-21:00
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2(10月27日)
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1(10月29日)
講演者
崔子恩監督(北京電影学院研究員、作家、映画監督)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」

IHSプロジェクト5「多文化共生と想像力」では、10月27日・29日の両日に渡り、北京電影学院電影研究所研究員であり、映画監督である崔子恩氏をお招きし、公開研究会「北京酷児映画展とクィア・ポリティックス」(27日)および「《同志》の語をめぐって」と題した講演会と映画『誌同志』の上映会(29日)を行った。以下は両日のイベントの報告である。

于 寧

10月27日の公開研究会では、報告者(于寧)は修士論文に基づき、「北京酷児映画展とその政治的可能性:中国独立映画運動とセクシュアル・マイノリティ運動との関わりを中心に」という研究報告を行った。崔先生はコメンテーターを務めてくださり、またクィア運動に関する議論をリードしていただいた。報告者の発表においては、主に北京酷児映画展を2000年代に発足した中国独立映画運動と2004年以降のセクシュアル・マイノリティ運動の流れの双方の流れを汲むものとしてとらえるべきという議論を行った。それに対して、崔子恩先生は縦と横の二つの方向すなわち歴史的視点(縦)および共時的視点(横)からコメントをしてくださった。縦の視点として、崔先生は、中国独立映画運動とセクシュアル・マイノリティ運動を、1989年以降に下火になった学生運動や労働者運動などの代行として出てきた新しい運動として理解すべきだと指摘された。すなわち、北京酷児映画展をして、学生運動と労働者運動が代表とした中国の民主運動という、より長い歴史の文脈において考え直すことを提案してくださった。そして、横の視点としては、北京酷児映画展を中国独立映画運動の流れにおいて考える際に、北京酷児映画展と他の独立映画展の相違点を分析する必要性を強調された。長く中国のクィア運動や北京酷児映画運動に関わってこられた崔子恩先生のご指摘は報告者にとってきわめて有益なものであり、今後の研究の方向性を考えるにあたっても大きな示唆を受けた。

《同志》《酷児》の政治:中国におけるクィア/映画祭運動 報告 于寧、半田 ゆり
報告日:2014年11月12日

半田 ゆり

10月29日には崔氏による講演の後、ご自身が監督されたドキュメンタリー映画の上映が行われた。崔氏の講演によれば、現在は同性愛者を指す言葉として使われている中国語の「同志」という単語の成立過程には、中国の歴史的政治的背景が深く関わっているという。そして、「同志」という言葉が、英語の「queer」(かつて同性愛者、とりわけゲイ男性をさす侮蔑語として使われた)の翻訳語としての「酷児」との間に成す差異は、きわめて興味深い。初期、「同志」は社会主義の中の平等主義とリーダー主義を同時に表す概念として用いられていたという。「同志」が同性愛者の意味に当てられたのは、1990年に香港で開かれた同性愛映画祭が最初であるが、「同志」がLGBTのラベルとして使われるようになった際、元々の用法が抱えていた前社会主義的な要素、社会主義が孕む男性優位の構造を消去することができたのか否かに注目することが重要である。「同志」が孕む男性/ゲイ中心主義に異議を唱えたレズビアンや女性性を押し出す人々から、「酷児」すなわちクィアという言葉を用いるべきだとの主張が起こったのだという。

一連の崔氏のお話からは、現在中国のLGBT(と、ここではとりあえずそのように言っておく)コミュニティの内部で起こっている平等をめぐる問題というミクロなポリティクスと、中国という共産党・国民党による指揮の歴史を持つと同時に、アメリカや日本との関係において、そしてグローバル化という今日的な状況においてまさに変化しつつある大国の現状というマクロなポリティクスの両面を窺い知る事ができた。それらは、会場からの指摘にもあったように、今日のクィア理論において社会/共産主義と資本 - セクシュアリティの問題が注目を集めている事に鑑みれば、ますます検討されるべき事態なのではないだろうか。

《同志》《酷児》の政治:中国におけるクィア/映画祭運動 報告 于寧、半田 ゆり
報告日:2014年11月12日