Workshop & Graduate Student Conference “Universal Values in a post-secular Era - the case of China and Japan” 報告 崎濱 紗奈、城間 正太郎

Workshop & Graduate Student Conference “Universal Values in a post-secular Era - the case of China and Japan” 報告 崎濱 紗奈、城間 正太郎

日時
2014年9月25日(木)〜26日(金)
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム3
講演者
Marc Matten(フリードリヒ・アレクサンダー大学ニュルンベルク=エアランゲン)、Fabian Schäfer(フリードリヒ・アレクサンダー大学ニュルンベルク=エアランゲン)、金杭(延世大学)、Minsuh Kim(延世大学)、Jaedong Lee(延世大学)、Youngin Han(延世大学)、Jimin Jung(延世大学)、崎濱紗奈(東京大学大学院IHSプログラム)、城間正太郎(東京大学大学院IHSプログラム)、入江哲朗(東京大学大学院)、藤田由比(東京大学大学院)、具裕珍(東京大学大学院IHSプログラム特任研究員)、斎藤拓也(東京大学大学院IHSプログラム特任助教)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)「共生のプラクシス――市民社会と地域という思想」教育プロジェクト「東アジア」ユニット

崎濱 紗奈

 2014年9月25日・26日の二日間、東京大学駒場キャンパスにて "Universal Values in a post-secular Era - the case of China and Japan"(邦訳「ポスト世俗主義時代における普遍的価値――中国・日本を事例に」)と題したワークショップおよびグラデュエート・カンファレンスが開催された。本稿では、25日に行われたワークショップを中心に報告する。

 そもそもなぜ今、東アジアにおいて「普遍的価値」を再考する必要があるのか。ここでまず、「普遍」と「政教分離」という概念の関係に触れなければなるまい。西洋近代に端を発する国民国家では、近代化政策の一環として「政教分離」が広く行われ、原則上世俗(政治)と宗教が分けられた。これにより、それまで「普遍」を体現していた「宗教」が支配的影響力を失い、「世俗主義」時代が到来した。西洋に範を採って国民国家を形成した東アジアにおいても同様に、紆余曲折を経ながらも「政教分離」が基本的な理念として採用されることになった。現在我々が生きる社会は、基本的にはその延長線上に置かれているものの、「世俗主義」の限界も指摘されつつある。たとえば、世俗的価値や規範は果たして宗教的な価値ぬきで成立可能なのか、あるいは、世俗と宗教という二項対立的な理解が本当に正しいのか、といった議論がなされている。その背景には「人権」や「理性」などといった世俗主義的な普遍概念への信頼が揺らいでいるという状況がある。誰もが共有できる「普遍的価値」が存在していないという状況は、それ自体が即ち悪というわけでは決してない。しかし、丸山眞男が「現代における人間と政治」で指摘したように、特殊主義への開き直りはファシズムへの道に繋がる可能性を有している。近年混迷を極める東アジア情勢において、丸山のこの指摘は決して過去のものではなかろう。だが、一つの普遍的価値を設定する際にも別様の問題が生じる。ある特殊的存在が、武力や暴力を根拠に自らの正当性を強引に主張し、普遍的価値の体現者として君臨することによって他者を踏みにじるという問題は、至る所で散見される。このように様々な困難が生じることを踏まえつつも、「東アジア」という空間において共有可能な「新しい普遍」を模索するというのが、今回の目的であった。

 25日には、中島隆博氏(IHS)による開会の辞の後、Marc Matten氏、Fabian Schäfer氏(フリードリヒ・アレクサンダー大学ニュルンベルク=エアランゲン)によるワークショップおよび、斎藤拓也氏、具裕珍氏(IHS)による講義が行われた。以下、それぞれの内容について報告する。

 まず、Marc Matten氏より、"The Restoration of Political Confucianism in China and its Global Impact"と題したプレゼンテーションが行われた。Matten氏が注目するのは、公共道徳・倫理をめぐる現代中国の社会状況である。報告の中でMatten氏は、公共広告などを事例として参照しつつ、中央政府によって儒教的価値観が盛んに喧伝される様子を紹介した。Matten氏は、こうした政治・社会状況は、昨今議論されている「天下主義」と併せて考えるべきであることを指摘した。「天下主義」とは、中国哲学における「天下」概念を、新たに普遍的価値概念として位置付け直す試みのことを指す。Matten氏は、こうした議論は理論レベルでは機能し得ても、実際には様々な危険を引き起こす可能性を孕んでいることを指摘した。発表に対し、金杭氏(延世大学)は、これらの問題は、中国固有の問題として捉えるのではなく、東アジアにおけるグローバル社会の進展という広範な文脈の中で捉えるべきであると述べた。

 続いて、Fabian Schäfer氏による発表、"Does Haberrmas Understand Social Media?: The Public Sphere as a Universal Value in Post-Democratic Japan"が行われた。冒頭でSchäfer氏は、ユルゲン・ハーバーマスの「Öffentlichkeit(公共圏、Public Sphere)」概念および、日本における「公共圏」概念の受容の経緯に触れた。次に、「公共圏」概念をインターネットに引きつけて論じた一例として、東浩紀の議論が言及された。この中でSchäfer氏は、宮台真司や北田暁大などによる社会学的分析にも広く目を配りつつ、『一般意志2.0』における東氏の議論を批判的に検討した。発表を受けて、金杭氏は、ハーバーマス哲学における冷戦体制の影響という問いを提示した。また、「公共圏」を介したコミュニケーションとは一体何のためになされるべきものなのかという問題提起もなされた。たとえば、「言論の自由」と言った場合、極端な人種主義的発言であっても、「公共圏」においてそれは受容されるべきなのだろうか。これらの問いを巡って、会場から様々な意見が提出され、白熱した議論が行われた。

 ワークショップ終了後は斎藤拓也氏(IHS)による講義"Two Concepts of Commonwealth in the Political Thought of Immanuel Kant"が行われた。講義の中で斎藤氏は、ジョン・ロールズに代表されるような、カントを自由民主主義の賛同者とする従来の観点は、カント哲学を理解するためには不十分であることを指摘した。斎藤氏が注目するのは、カント哲学における「倫理」である。近代化によって世俗化が進展する中、カントは共通善としての倫理という課題にいち早く取り組んだ。この議論の中で、再び浮上してくるのが「神」という概念である。カントにおいて神とは、個々人の倫理を担保する源泉であり、また、社会全体を統合する役割を担っている。これに対し金杭氏は、南原繁の思想に言及し、戦前の日本におけるカント哲学の受容は、天皇制支持と密接に関わっているのではないかと指摘した。また、カントにおける神概念と、ルソーにおける市民宗教概念との相違についても活発な議論が交わされた。 斎藤氏の講義に引き続いて、具裕珍氏(IHS)による講義"Japanese Conservative Movements and Political Opportunities/Threats"が行われた。講義のテーマは、1990年代以降の日本社会における保守派の政治運動についてであった。具体的事例として、「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」「在日特権を許さない市民の会」等の活動が活発化したことが言及された。具氏によれば、こうした現象が生じる要因について、先行研究では大まかに二種類の分析がなされている。一つは、これらの現象は社会的・経済的な不安や不満に根ざしているという見方である。もう一つは冷戦終結後の国際社会でナショナリズムが再燃したという見方である。講義では、これら二つの分析の長所・短所がそれぞれあぶり出された。講義内容に対して会場からは、「現在の"保守派"は、かつての日本ファシズムと果たして同質のものであるのか」、「在特会は、国会議員の持つ"特権"についてはどのように考えているのか」、といった質問が寄せられた。また、こうした動向を果たして「保守」という用語で表現してよいのかといった、用語法をめぐる議論も行われた。

 プログラム終了後行われた懇親会でも、引き続き活発な議論が行われた。報告者はこの度ワークショップ及びグラデュエート・カンファレンスに参加する機会を得て、こうした交流を継続することの重要性を痛感した。その際、学会の規模や形式に必ずしも厳密にこだわる必要は無い、ということも併せて感じた。今回、英語が共通言語として設定されてはいたが、途中日本語や韓国語、そして中国語が飛び交うこともあった。また、小規模だったからこそ、アットホームな雰囲気の中で議論の時間を十分に取り、お互いの意見を交換することができた。肩肘張った「国際交流」ではなく、このような地道な交流こそが、多文化共生社会実現への一歩であることを確信した一日であった。

報告日:2014年10月10日

城間 正太郎

 2014年9月26日、前日に行われたワークショップに引き続き、"Universal Values in a post-secular Era"というテーマのもとで、大学院生が主体のカンファレンスが駒場キャンパスの18号館コラボレーションルーム3で開かれた。発表者は合わせて8人、報告者の城間を含む東京大学の大学院生が4人(内IHS生は2人)に、韓国の延世大学から日本にやって来た大学院生が4人である。使用言語は英語で、発表のための時間が15分、続くディスカッションのための時間が10分と設定された。マッテン教授やシェーファー教授、及び東京大学IHSの教員や研究員も議論に参加し、それぞれの学生の発表へ質問やコメントをしていただいた。セクションは大きく三つに分かれ、一つ目のセクションのタイトルが"Reexamining the 'Universality' in Asian Context"、二つ目が"Reflections and Observations on 'Universal Values' in South Korean Society"、三つ目が"Reconsidering 'Universal Values' in Language and Naturalism"である。以下、それぞれのセクションの内容を報告する。

 城間を含む三人が発表したセクション1では、広い意味では「アジア」という文脈に即した発表がなされたものの、日本や香港という一つの国や地域における普遍性のあり方を検討する発表がなされた。それら三つの発表の内容を簡潔に列挙すると、以下のようになる。まず一つ目に、柳宗悦の著作の読解を通じての、近代日本における中国中心主義的な言説やドイツ観念論受容への批判的検討。二つ目に、昨今大規模なデモで世界中の耳目を集めている香港の戦後史に見る、ナショナリズムや植民地主義の問題。そして三つ目に、国家神道を批判するために神道を普遍的な宗教として再建しようとした折口信夫の試みの批判的検討がなされた。

 続くセクション2では、1970年代およびそれ以降の韓国に見られる文化的、社会的な事象に関する発表が三つなされた。まず一つ目に、1970年に放送が開始され韓国で人気を博した、探偵を主人公とするテレビドラマ"Su-sa Banjang"への政治的な考察。二つ目に、1980年代の韓国で、労働者たちが自身の手で過酷な労働や生活のあり様をリアルに描いた、"life-writing"と呼ばれる自伝的な著作物への考察。そして三つ目に、つい先日(2014年4月16日)韓国で起こり多くの犠牲者を生んだ、フェリー転覆という大規模な(「事故(accident)」ではなく)「災害(disaster)」への、人権という観点からの考察が行われた。

 最後のセクション3では、二つの発表がなされた。一つ目は、学術界において「普遍的」な共通の言語として扱われている英語と、その他の言語それぞれのもつ価値を検討し、これからの学術界のあり方を言語という観点から考察する発表。二つ目は、世俗主義ではなく自然主義を敵とみなし、宗教的な価値へ科学的な説明と感情的な基礎付けの両方を与えようとしたアメリカの哲学者かつ心理学者ウィリアム・ジェームズの哲学を、資本主義という観点をも視野に入れ検討する発表である。

 以上のように、「普遍性」という大きなテーマを共有しながらなされた発表の内容は多岐にわたり、参加した学生はみな、自身の専門が何かに関わりなく、多種多様な発表に触れることができたと思われる。ただ、個別的で具体的なことについて論じる際、その議論をどのようにして普遍性につなげればよいのかという問題意識、そして、特殊性と普遍性という対立する概念を、二項対立に帰着することなく扱うにはどうすればよいのかという問題意識、この二つの問題意識はカンファレンス全体に通底していたといえる。そして、おそらく参加した学生のみながこの機会のおかげで自らの課題を発見することができただろう。丁寧な質問やコメントを参加者からもらえたことは、学生たちにとって貴重な経験となったに違いない。また、ネイティヴでない学生にとって決して楽ではなかったはずだが、英語で発表し議論する経験を積んだことの意味も大きいはずだ。二日に亘ったワークショップとカンファレンスで学んだことを糧に、それぞれの学生が今後さらに自らの研究を深めていくだろう。

 カンファレンスの最後には、今回のワークショップ及びカンファレンスの今後について話し合われた。まず一つ目に、今後も今回のような集まりを韓国の延世大学やドイツのエアランゲン大学及び東京大学(IHS)の間で継続して行っていくことが確認された。また、それぞれの大学がお互いの大学院生を一ヶ月程度の期間受け入れることの可能性についても併せて話し合われた。もしこうした形での大学院生の短期留学が継続的に実施されれば、大学院生の研究環境は大きく変わるだろう。

報告日:2014年10月6日