多文化共生・統合人間学演習II(第8回報告) 那 希芳

多文化共生・統合人間学演習II(第8回報告) 那 希芳

日時
2014年7月4日(金)16:30−18:00
場所
東京大学駒場キャンパス8号館209教室
講演者
林少陽(総合文化研究科超域文化科学専攻准教授)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)「共生のプラクシス――市民社会と地域という思想」教育プロジェクト

林少陽先生は日本の言文一致について考えるために「『近代』と『風景』または『山水』ついて:柄谷行人の議論を手がかりに」と題して講義をしてくださった。この講義で林先生は「風景」の問題が日本近代を見る上で重要な視点であると捉え、柄谷行人氏の風景論の問題点を指摘しながら、議論を進めていた。

柄谷氏は『日本近代文学の起源』において、中国山水画の一つの特徴は「概念を描く」ことだといい、そこでは山水が「一種の宗教的対象」とされており、描かれた山水は「イデアとしての山水」であり、特に蘇軾以後の文人画・山水画運動は「写実」ではない、と指摘した。この指摘に対して、林先生は「イデア」を描くことで一括するようなことは言えないのであり、中国の山水画は確かに「形似」よりも「神似」を重視するのだが、「形似」や「模写」や「写生」を重視する傾向もあった、と論じた。

林先生はさらにフランソワ・ジュリアン(François Jullien, 1951-)の老子論を踏まえた上で、老子の「大象無形」(The greatest image has no form)思想にもとづくジュリアンの山水画論を重視し、そこには西洋の従来の「理性 vs. 感性」の二元論的枠組みでは捉えきれない重要な内容があると論じ、それはプラトン的イデアかフォームに対立するものである、と指摘した。

中国の山水画は確かに「自然のリズムや、画家の宇宙哲学、人生哲学」を表現しようとしていたのだが、しかしそれは柄谷氏のいったような「宗教的」なものではない、と林先生は強調した。蘇軾以後の山水画には禅の影響が見られるが、禅は実は山水画に「詩的要素」を注入して、山水画の「文学化」をこそもたらしたのだが、それを「宗教化」と言うことはできないのである。林先生は、むしろ「山水」と道家哲学との間の関連を重視している。 しかし、このような山水画は近代に入ると様々な変容を余儀なくされた。林先生によれば、日本では「美術における『山水』の抑圧」、さらにその影響を受けた「言文一致にある『文』の抑圧」が起こり、「日本の風景ナショナリズム」が生まれたのだが、中国においても近代以後、「山水」の権威と中身が大きく変容したのである。総じていえば、東洋では「風景」の発見と同時に「山水の忘却または衰退」が見られ、それは「われわれと自然との関係に大きな変化が生じた」ことを意味する、と林先生は最後に指摘した。

林先生は精彩豊かな講義を行った後、プログラム生達から出された質問に対してさらに応答した。特に「イデア」という概念の捉え方、「神似」や「写生」の意味、さらに横山大観の作品「日輪」(1939)の解釈などについて、先生とプログラム生達との間に活発な議論が展開された。


報告日:2014年7月9日