多文化共生・統合人間学演習II(第4回報告) 斎藤 拓也

多文化共生・統合人間学演習II(第4回報告) 斎藤 拓也

日時
2014年5月30日(金)16:30−18:00
場所
東京大学駒場キャンパス8号館209教室
講演者
石田勇治(東京大学大学院総合文化研究科教授)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)「共生のプラクシス――市民社会と地域という思想」教育プロジェクト

前世紀の戦争と植民地支配に由来する「歴史問題」をめぐって、近年特に日本は近隣諸国の政治的指導者から名指しでドイツと比較され、ドイツの戦後の歩みから学ぶことを強く求められている。ドイツは敗戦を通じて極端なナショナリズムが何をもたらすことになるのかを学び取り、「悪しき過去」について社会的合意を形成した。日本の社会は敗戦の後に平和を重んじるようになったが、過去について総括と反省を行っていないという印象も与え続けている。それでは、戦後ドイツはどのような取り組みを通じて国際的信用を回復することができたのだろうか。「多文化共生・統合人間学演習II」の石田教授の講義は、このような問いかけから始まった。

石田教授はまずパワーポイントを用いてベルリンの「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」や「灰色のバス」移動型記念碑、路面に埋め込まれた「躓きの石(Stolperstein)」といった過去の記憶を公共的に可視化する試みを様々なスライド資料を見せながら説明し、こうしたドイツの取り組みがフランスやオーストリアでも広がっていることを指摘した。ドイツは過去との取り組みにおいて見習うべき存在になっているのである。ドイツでは「過去と向き合う」、「過去を克服する」と言うときに、その対象はふつう1933年から1945年までの「ナチ支配(NS-Herrschaft)」として理解され、国家を挙げて組織化されたジェノサイドが反省される。これは、何を問題にするか(植民地支配全体なのか、それとも1937年以降の日中戦争、アジア太平洋戦争なのか、あるいは個別の問題なのか)という点で揺れ動き、反省すべき行為の対象として個々の戦争犯罪が挙げられることの多い日本とは対照をなしていると言えるだろう。

それでは、なぜこのような過去の記憶と克服をめぐる相違が生まれるのだろうか。この問いは、そのまま二つの社会の比較可能性を開いていく。社会的な合意は、ドイツでも最初から存在していたわけではない。1960年代に戦時中の不法行為の時効が到来することを待ち望んでいたドイツは「何よりもだめなドイツ」(H・M・エンツェンスベルガー)と言われるほどであった。しかし、ニュルンベルク国際軍事法廷以外に、ドイツでは時効をめぐる論争が繰り返され、また裁判を通じた真相究明のための取り組みと、その過程で明らかになった事実に基づく議論の積み重ねによって共通了解が徐々に形成されていったのである。このようにして作り上げられた規範は、それまでの思考様式の転換を促すことさえある。ドイツにおいても長い間、東ヨーロッパ占領地(ポーランド・ウクライナ・ロシア)で行われた強制労働は戦争犯罪であって「ナチ犯罪」、「ナチ不法」ではなく、したがって個人補償の必要はないと考えられてきた。しかし、シュレーダー首相の時代には法的責任は認めないながらも、政治的・道義的・歴史的責任から強制労働に対する個人レベルの補償を行う方向へと方針転換を果たしている。

過去の記憶と克服という問題を考えるさいに、ドイツを模範にするとはどのようなことなのであろうか。日本にドイツのモデルを当てはめるには、両国が戦後置かれてきた条件があまりにも異なっていることは事実である。アメリカの対独政策と対日政策だけをとってみても、相当異なっている。しかしながら、それでもなおドイツと日本の間には、比較可能な点があることもまた事実である。日本の場合には、1950〜60年代に近隣諸国から戦争責任を追及されることがなかった。そして、1990年代に批判が始まることによって、現在のような状況に陥っている。ドイツは諸外国からの圧力を受け、その中で諸外国との対話を続けてきた。市民社会全体を巻き込む論争が規範形成に必要であるとするならば、日本の市民社会は今なおそのような経験を通過していないと言わなければならないだろう。講義に続くディスカッションでは韓国におけるドイツの取り組みの捉え方が紹介され、多くの取り組むべき課題があることが確認された。7月22日から25日にゲルハルト・ヴォルフ博士(サセックス大学)を招いて開催される連続セミナー「過去の記憶と克服──ヨーロッパとアジアの比較」でも同じように活発な議論が交わされることを期待したい。

IHS_R_2_140710_Ishida_02 報告 斎藤 拓也

報告日:2014年5月30日