多文化共生・統合人間学演習V(第3回報告) 星野 太

多文化共生・統合人間学演習V(第3回報告) 星野 太

日時
2014年5月24日(土) 13:00-18:00
場所
東京大学駒場キャンパス駒場博物館セミナー室
講演者
池上高志(本学広域科学専攻教授)+小林康夫(本学超域文化科学専攻教授)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム 多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)「生命・環境」ユニット

IHS「生命のかたち」教育プロジェクトでは、5月24日(土)に本学広域科学専攻の池上高志先生をお迎えし、「多文化共生・統合人間学演習V」の第3回目の授業を行なった。この日は9名のIHS学生が参加し、池上先生のご著書『動きが生命をつくる――生命と意識への構成論的アプローチ』(青土社、2007年)と『生命のサンドウィッチ理論』(講談社、2012年)を事前に読んだうえで講義に臨んだ。

まず、正直に告白すれば、池上先生が行なっている研究の全容を要約することはきわめて難しい。本来であれば、ここで先生のご専門を「複雑系生命科学」とでも紹介したくなるところだが、講義の中でたびたび強調されていたように、池上先生の研究活動には「専門」という名の閉域をむしろラディカルに批判するような側面がある。人工生命や第三項音楽、ライフゲームやインスタレーションといった(一見)異なる概念や対象を扱う池上先生の活動は、「科学とアートを融合させる」といった素朴な目的論に動機づけられたものではいささかもない。むしろこれらの領域は、「生命」をめぐる根源的な問いを突き詰めていくなかで、必然的に開拓されていったものだからである。

今回の講義も、通例通り小林先生と池上先生の「対話」から始まった。ここでもその中心を占めたのは、人文学と自然科学という各々の専門に閉じこもることのない、両者のきわめてラディカルな問いである。自由意志とは何か、(アーティストが作品を)インストールするとはどういうことか、そして、生命を成り立たせているものとは何か――これらの問いが次々に繰り出されていく中で、対話は次第に複雑系生命科学をめぐる核心的な問題へと移行していった。

ライフゲームにおける「グライダー」の存在に象徴されるように、生命が観測されるかどうかの基準は「中間層」の発生にかかっている、というのが前半の講義の(そして『生命のサンドウィッチ理論』の)ひとつのハイライトであった。つまり、ハードウェアとソフトウェアのあいだに――「脳」で言えば「神経細胞のネットワーク」と「意識や記憶」のあいだに――発生する「自分で動くパターン」こそが重要である、ということだ。この「中間層」ができるかどうかを生命の基準とし、それを複雑系という構成論的アプローチによって明らかにすることが、池上先生の研究の中心を占めているとひとまずは言えるだろう。

講義の後半では、『生命のサンドウィッチ理論』を主なテクストとして、「生命」をめぐる池上先生の立場を詳しく解説していただいた。とはいえ、人文・社会科学系の大学院生を中心とする履修者の関心は、やはり池上先生と「アート」の関わりに集中したと言ってよい。なぜ、「生命」の研究にとって「アート」が重要なのか。それは、生命というものを突き詰めて考えてみた場合、もしかしたら生命は「科学」の対象にはなりえないかもしれない、という発想が必然的に生じてくるからである(この点については、『生命のサンドウィッチ理論』における「非線形なシステム」や「散逸構造」をめぐる議論、さらにその詳細な背景については『動きが生命をつくる』の第8章を参照することをお勧めする)。前回の金子先生の講義で説明された幾つかのキーワード――「ゆらぎ」や「カオス的遍歴」――は、既存の科学では容易に捉えがたい「生命」の本質を浮き彫りにしていた。そして、同じく構成論的アプローチを旨とする池上先生が、きわめて「稀な」自然現象を作り出すものとしての「アート作品」――とひとまずは括られるもの――の制作に向かっていく背景にも、やはり以上のような問題が存在していると言えるだろう。

講義の終盤では、池上先生を中心に、写真家・音楽家などさまざまなクリエイターの協働により制作されたMTMDFという電子書籍――というよりもひとつの「作品」――が紹介された。こうした作品には、従来型の文系/理系といった区別には到底収まらない、新たな「知」のあり方が結晶している。前回の金子先生+小林先生の講義に引き続き、池上先生+小林先生の対話によって進められた今回の講義も、文系/理系の知の横断を主眼とする、本教育プロジェクトのひとつの方向性を象徴するものであった。

報告日:2014年6月30日